歴史学同好会


R元年 12月 「香港」

  

  アジアの歌姫と言われたテレサ・テンが1995年に死去してから、すでに24年がたつ。彼女は、ご承知のように台湾の生まれ育ちで、1974年に日本デビューを果たしスター歌手になった。来日前はポップスを多く歌う歌手であったが、日本での立ち位置はムード歌謡に近い部類の曲が多かった。ヒット曲の中に「愛人」という曲目があるように、歌で描く物語の世界には、愛人関係や不倫を想像させるものが多いとファンからは捉えられていた。


 テレサの曲は東南アジアなどの華僑世界を中心におおいに人気を博し、それはほどなく中国本土にも波及した。中国政府は彼女の楽曲を「不道徳で有害なもの」とみなし、1983年には放送禁止処置にした。表面は社会主義国として資本主義的な文化を否定したとされているが、台湾出身の彼女のファンが増加していくことを何より警戒していたのでは、囁かれている。


 テレサの父は中国河北省出身の国民政府の職業軍人だった。そのため、テレサは歌手デビュー後に軍隊への慰問活動を熱心に行っていたと言う。ときには政治的発言や行動も辞さず、1989年には中国本土の民主化デモなどの情勢に反応して、香港で行われた民主運動支援コンサートに出場するなどもした。しかし、天安門事件の決着は力による圧殺に終わり、1990年に企画されていたテレサ自身の中国本土での公演も中止になった。中国の民主化と両親の故国で歌うことを熱望していたテレサの失望は大きかった。


 テレサは1987年頃から香港に移住しており、天安門事件に中国本土が揺れる時期はこのころにあたる。彼女の曲の一つに「香港」がある。彼女に多くのヒット曲を提供した荒木とよひさ、三木たかし両氏による曲である。日本での初出が1989年であるから、彼女が香港に住み、中国本土が天安門の民主化運動で騒然となっている時期の曲である。歌詞には1番に香港の夜景を描く部分があるが、後は歌い手の孤独感・寂寥感を歌う内容である。香港をめぐる政治情勢などは当然含まれてはいないが、当時テレサが置かれていた状況を聞き知ると、この曲を歌う時の本人の心情を思い浮かべずにはいられない。


 1997年に香港は、租借期限の終了した新界地区などとともに、中国に返還された。ケ小平氏が表明したように、1国2制度を取り、向こう50年間で漸進的に中国化を進めていくという中英間の協定が取り交わされた。このことは再三取り上げられ、国内外に広く衆知のことである。しかし、ここ数年、中国政府が香港の本土化を進めようとする中で、反発も強まっている。2014年には、香港行政庁の長官選挙で、候補者の選定に制限を加える案を示したところ、雨傘運動とよばれるデモ活動が行われた。そして今回は、逮捕者の本土への引き渡しの一件でより激しいデモに至っている。


 香港は、学校の歴史の授業でも習うように、1840年のアヘン戦争の結果英国領となった土地である。以後、1949年に現在の中国政府が成立するまで、各国が中国の領土を争奪すべく、各地を蹂躙した。それまで多くの租借地、租借権益などを握っていた各国は、中国共産党政権の国家樹立と共に、皆手を引いた。香港だけは、借りたのではなく英国が条約で勝ち取った領地であるから、英国が領有し続けていたが、

新界地域と一体でなければ成り立たないものと見て、返還を決めた。


  アヘン戦争後の列強による蹂躙は、中国史上において中華民族が受けた最大級の屈辱と見ていることは、隣国の日本から想像するにしても、ほぼ疑いがないだろう。香港はその先駆けとなり、象徴といってもいい土地である。この都市が返還され、中国政府により本土との一体化が進められているならば、中華の民族が新しい希望に燃えた時代が来ることを歓迎するという反応が出てくるのが自然であるはずのところだ。しかし、状況はその正反対である。

 

 民族の血は、「水より濃い」という言葉が歴史上で使われたことがある。これは第一次世界大戦の戦後処理にからんで使われた表現だった。ヨーロッパの未曽有の大戦争で傷ついた英国に、新たな世界的強国として台頭した米国が、手厚い支援を行った。18世紀の独立戦争以後も両国は大西洋を中心に覇を競い、時には戦火を交え、少なからずギクシャクした間柄だった。しかし、20世紀の大戦後は密接な関係が生まれ、両国間ではアングロサクソンの血が呼び合うという言葉が使われた。血のつながりを強調する陰で、しっかり利益を得ようと言う心理も動いていただろうが、ルーツのつながりを掲げることに、賛同している心理は大きいものがあった。


 この血の団結を元にしたスローガンは、その後も様々な機会に様々な国や民族が持ち出している。英国が植民地帝国の座を失っても、英連邦の交流を盛んに行っており、フランス、ポルトガル、スペインもかつての海外領土と一体感を高める呼びかけをしばしば行っている。血の近さに訴える呼びかけは、大方の人たちを納得させるものを含んでいるということなのだろう。「血のつながりなど、21世紀の世の中では古めかしい。時代遅れ」として冷笑する向きも少なくないだろうが、意外にそうでもなさそうな例がいくつもあった。


東西冷戦構造が消滅し、ソ連邦が崩壊した後に、中央アジアの諸国が次々に独立した。ロシアが連邦を維持できなくなった後には、トルコ系やイラン系の国々が新たな枠組みを模索し始めた。その中で、イランは「タジキスタンに大いに関心を持っている」と表明した。国境を接するトルクメニスタンなどではなく、パミール高原あたりのタジキスタンに言及したのは、この国の言語・文化が常に語られるようにイラン系のものであり、ルーツを同じくする国であるからだった。また、旧ソ連と東欧諸国の境界に位置していたモルダビアは、

東西対立が解消した後には、隣国ルーマニアを同胞の国として意識しながらも、社会主義政権崩壊のために経済混乱に陥っているルーマニアとの関係強化を表明することはしなかった。しかし、数年のうちにEUがルーマニアを始め東欧諸国を抱き込むように範囲を広めると、その効果で各国の経済状況も安定を見せ始めた。そうした状況の中でルーマニアとモルドバ(モルダビアから改称)双方で、合同の話題が再び持ち上がりつつあるという。


  米ソ対立の時代、ドイツは分裂国家となり、東ドイツは社会主義圏の国として国際舞台で諸々の実績を重ねて存在を示し、一つの国として承認度を高めようとしていたが、その陰で東西ドイツの再統一を目指す動きも常に行われていた。ベルリンの壁崩壊後の国家合同の速さは、それなりの下地がなければあり得ないものだった。ドイツ人の血が呼び合う力の方が、政治イデオロギーをはるかに凌駕していたのである。


 その中での、香港人の反発は、あきらかに中国における状況が違う要素があるかを強く感じさせる。他国の事情を見れば、血の熱さが多くのものを超えるエネルギーになっていたが、中国にはそれがない。同胞にさえ忌避されることは、実に深刻な状況と言える。中国の政治の理想は、尭舜の昔から人々に慕われる徳の高い政治であった。その境地に至るために、現在の政治に何が必要が、中国の政治を司る人たちには、ぜひ熟慮をお願いしたい。



                                             (信:筆)