歴史学同好会


R2年 1月号 「五輪大会」


 令和2年は五輪大会の年である。1964(昭和39)年から夏の大会としては56年ぶりの開催である。日本としては、1988年に向けて名古屋が立候補したが韓国・ソウルに敗れた。2008年にむけて大阪が立候補したが、支持が集まらず北京に敗れた。東京が2016年に向けて立候補した際にも、他の立候補地に比べ、自国の支持率が低いことが盛んに指摘され、リオデジャネイロに敗れた。当時の石原都知事はすぐさま次の2020年五輪をめざすと表明した。バブル崩壊後元気がない日本に、前回の東京五輪当時のような元気を取り戻すためというのがコンセプトだった。


  この当時2009(平成21)年10月、筆者はこのコラムで、日本の五輪への立候補のことを語って、「醍醐の花見」と言っていた。秀吉が誇大妄想気味に朝鮮に軍を送り、戦線膠着の泥沼にはまった頃、政権の憂鬱の気を払うために醍醐寺で豪華な花見の宴を催した。経済復興を果たし、国際舞台への完全復帰を諸国に

披露するために行った前回の東京五輪は、まったく趣旨が違うものに思えた。つい先日の国会議論では、総理が「仲良しの人たち」を呼んで行った花見が「醍醐の花見」に喩えられていた。権勢の誇示という意味では共通しているように見える。


 その後、知事は次の猪瀬氏の時代になり、高円宮妃殿下やクリステル現小泉大臣夫人などの面々のサポートを得て、2013年に東京五輪開催決定の運びになった。五輪開催の方向が定まると、やや訝しがっていた国民世論もおおむね好意的になっていたが、そのあとに五輪に関わる「すったもんだ」と表現したいような事態がいくつも起こった。新国立競技場のデザイン問題、競技施設の所在地選定問題などに次の次の知事である小池氏のご意見などもあり、あれこれと問題点が頭をもたげた。そして、開会まで1年を切ったところで、マラソン、競歩開催地問題が噴出した。


 マラソンや競歩を開催するのは、選手に危険すぎるという意見がIOC側から提起され、結局両競技を多少なりとも涼しいであろうと思われる札幌での開催が決まった。この一件には、国外での反応は詳らかではないが、国内では様々な反応が伝えられた。IOCが「決定事項」というのだから従うしかないのだろうという恭順論と、「日本開催OKと言っておきながら、ぎりぎりになって会場を変更せよなどというならば、返上してしまえ」という強硬論もあった。主催者である小池知事は「合意なき結論」という言葉を使った。


  素人目で見ても、議論の経緯には不可解なところは多々ある。あと1年を切ったところで、会場を変更せよという指示を出すのもそうだが、マラソンや競歩が7、8月に行うべき種目ではない、選手の身体の危険がある、という問題指摘は、早くから言われていたことだ。しかし、IOCも国際陸連もその意見には触れず、開催地東京がよくない、と言う方向に話を持って行った。多くの事情通が指摘するように、米国の放送会社からの放映権料収入が五輪開催に不可欠であるため、そちらの要望を優先しているというのである。多額の収入があるから、選手の競技環境は後回しにしてしまおうというのでは、誰のための五輪か、と怒る人々が多くいるのも当然の成り行きである。


  1896年に、フランスのクーベルタン男爵の提唱で、古代オリンピアードの復活が実現した時は、やや前から開催されるようになっていた万国博覧会の添え物的な扱いであったという。しかし、スポーツ大会が各国民の強い関心を呼んだ事から、万博から独立したイベントとして行われるようになった。ことに勝敗を明らかにするものであることから、各国の国威発揚に利用されることが避けがたく、国際政治状況に翻弄されることが数多くあった。


 古代オリンピックは、大会期間中はオリンピック休戦が習わしだったことが伝わるが、20世紀の現代に通じるはずもなく、1916年にベルリンで予定されていた第6回大会は第一次大戦のために中止になった。大戦後の1920年の五輪大会は戦場となって荒廃したベルギーのアントワープに決まった。五輪大会の主催者クーベルタンの強い意向によるものだった。ベルギー自身は戦禍の後が甚だしく、大会開催の力が不足していたが、クーベルタンを始めとした主催者の必死の呼びかけで、多くの国々から支援の声があがり、大会は過去最高の参加国数と参加者数の中で行われた。


  1936年の第11回大会はベルリンで行われたが、この大会はヒトラーによるナチスのプロパガンダに最大限に利用されたことで名高い。そのゲルマン民族至上主義を誇示しようとしたヒトラーの意図と裏腹に、米国の黒人選手オーエンスが陸上競技で四冠を果たし、日本選手も大活躍を見せたのは皮肉な結果だった。この大会の後の12回東京大会、第13回ローマ大会は第二次大戦のために中止になってしまった。第14回ロンドン大会は、ドイツの爆撃の痕跡が痛々しい中で行われた。この大会にも多くの諸国からの支援によって救われたが、日本をはじめドイツなどの敗戦国は出場を認められなかった。


  1976年のモントリオール大会で同市が多額の赤字を抱えてしまったことから、開催地に立候補する都市が無くなり、1984年の大会は米国のロサンゼルス市以外の立候補はなく、開催はすんなり決まった。この大会から大会の開催・運営の責任は開催都市そのものではなく、大会組織委員会が受け持つこととなった。ロサンゼルス大会で同職を務めたピーター・ユベロス氏は、大会の公式スポンサーを決め、放送権を特定放送会社が買い取る方式などを導入し、巧みに大会の収入を増額させ、むしろ黒字に転じる手腕を見せた。これによりその後の数回の大会は、立候補する都市が増加した。


  その後、五輪大会はプロ選手の出場が認められるなど、大きく様変わりしていった。ユベロス氏の方式は五輪を「金食い虫」転じて「五輪は金になる」というイメージを広めることになり、」商業主義の進出が甚だしくなってしまった。前述した米国放送会社の意向が最優先されるような本末転倒とも言える状態があたりまえになってしまった。かつての提唱者クーベルタンは帝国主義的競争に欧米列強がせめぎ合う時代に、スポーツを通した国際的友好と協調を訴えた。また平和なくして五輪大会も存在しえないことも歴史が証明することになった。五輪大会に携わる人々は、もう一度五輪の原点を見つめなおすことが必要なのではないだろうか。そしてスポーツ選手たちが溌剌と競技する大会をみせてほしい。

 

                                                      (信:筆)