歴史学同好会

R元年11月  「緒方貞子氏」


 さきごろ、元・国連難民高等弁務官の緒方貞子氏が亡くなった。92歳だった。氏の名を多くの人々が記憶しているのは、当然、国連の弁務官としての活動を通してだろう。国際政治の世界で活躍する日本人のシンボルのような存在だった。1990年から2000年までの10年間弁務官を務め、その後、次の役職に、その高名を買われ、いくつもの打診があったようだが、2003年からJICA(国際協力機構)理事長となった。おもに国際連帯、国際貢献の分野で活動をされていた。ご自身の思いもそこに焦点があてられていたのだろう。


 緒方氏の出自が外交官の家柄であるため、幼少時から国際貢献に関わる分野への意識は持っていた人物であろうと想像されるが、大学卒業後は、国際基督教大学、上智大学などで教授職をつとめ、40歳代までは教育現場で仕事をしていたという。国際貢献に縁ができたのは、1968年に市川房江議員の求めで国連代表団の一員に加わったことである。国連が1975年を国際婦人年に定めたことを契機に、日本からも国連公使に女性を任命することが検討され、緒方氏に白羽の矢が立った。以後、氏は継続して国連を通して国際連帯の役割を担い続けることになる。ユニセフ執行理事会議長、国際人権委員会委員を務めている。そして、1990年に難民高等弁務官に就任している。


 NHKのドギュメンタリ―番組でも、20世紀は難民の世紀と言えるという言葉があった。世界規模で膨大な難民が発生しているのが、現在目の前にある課題だというのが、状況をよく語り得る表現になる。おりしも、緒方氏が弁務官の任に就いた1990年は、東西冷戦が終わり、世界が平和に向かうことが期待された。しかし、この30年ほどを見てきた多くの人々の実感のとおり、一向にそうはならなかった。したがって、緒方氏の仕事は増えこそすれ、へるようなことにはならなかった。ことに氏が最も深く携わったアフガニスタンは、1979年にソ連軍進攻以後、いくつもの集団による内戦状態となり、さらにはイスラム原理主義者のタリバンが登場して、厳格な宗教規律を民衆に強いるなどして、住民は様々な苦難から逃げ惑う生活になっていた。


  緒方氏は、この任にあった10年間のうちに何度もアフガニスタンをはじめとする難民発生の現場に足を運んだ。何キロもある重い防弾チョッキを着こみ、いくつもの難民キャンプを訪れる緒方氏の姿に、海外マスコミは5フィート(150センチ余り)の巨人と呼んで讃嘆した。日本でもその姿は報道番組などでしばしば伝えられた。ただ、日本国内の反応で言えば、国際舞台で活躍する日本人ということで、注目度は大いに高かったが、その任務の重大性が深く認識されたかというと、いささか疑問が残る。氏のネームバリューと難民問題への理解の深度のギャップを緒方氏自身はいかなる思いだったろうか。


  弁務官の任務を終えた2年後に、当時の小泉政権が田中真紀子外相の更迭後の後任に緒方氏の名を挙げたが、本人が固辞したことは、今回の訃報においても語り草になっている。同時期の1990年代に、カンボジアのUNTACや旧ユーゴのPKO活動の指揮官となって活躍した明石康氏が、1999年の東京都知事選に、義理人情にからめとられるように出馬した(それだけで言い切ってしまうと明石氏に気の毒かもしれないが・・・)こととは、好対照を見せた。政治の世界は自分が歩むべき世界ではないというはっきりした認識があったのかもしれない。


 前述のとおり、国連の弁務官退任後もJICAの役職などで社会貢献を果たしていたのであるが、高名な存在でありながら、それほどマスコミに登場することは多くなかった。高い国際認識を持つ人物として、登場願おうとしたマスコミが無いはずは無かったと思うが、あるいは、大物過ぎてつり合いのとれる他の人物をマッチングできなかったということもあったかもしれない。


  緒方氏の訃報では、その華やかな系譜もまた語られていた。 外交官の家に生まれ、母方も曽祖父が戦前の政党人・犬養毅であること、夫の四十郎氏の父が前後の保守政界の重鎮・緒方竹虎であることもなどは、共通して触れられていた。この緒方姓にはもう一つ由来があり、緒方竹虎氏の祖父は、幕末期の開明的蘭学者・緒方洪庵と親友であり、そのつながりから、自身の四男に緒方姓を名乗らせたのだという。さすがに直接影響をうけたということは無いのだろうが、まだ蘭学に偏見の強かった江戸時代後期に世界に目を向けていた大学者と、日本女性として世界貢献のために活躍した緒方貞子氏の存在が、不思議な縁で結ばれているように感じられるところである。


                               (信:筆)